Base Ball BearのOMOIDEと小出祐介のノスタルジアへの抗い&ギターロックへの愛憎、そして「C2」

OMOIDE IN MY HEAD
彼らを知ったのは高校生の時にメジャー1st『C』リリースの特番でやってたオールナイトニッポンだった。番組も曲もなんとなく面白かったので、日が明けると同時にアルバムを買いに走る。するとその瑞々しくも端正なギターロックに惹き込まれ、あれよとあれよという間にご立派なロキノンっ子へ。それからは若若男女や当時よく出てたSHIBUYA-AXでのライブに行ったり、過去音源やバンドの参照元でよく名が挙がるNumber GirlSUPERCARも熱病にうなされたが如く漁り、かくしてBase Ball Bearを中心にギターロックの虜になっていった。

しかしそんな中で2007年末にリリースされた2nd『十七歳』は、サウンドも詞も自分の期待と大きくかけ離れてたものだった。ナンバガ譲りの鋭角的なギターは鳴りを潜めて悪い意味で丸くポップなサウンドになり、『C』以前のコンセプトであった都市や海の風景等といったモチーフは後退。代わりに小出氏自身の過去の暗い高校生活がメインになっていった。しかし、当時アルバムタイトル通りリアル17才でかつ似たような環境の自分でもそんなロキノン2万字インタビュー的トラウマ語りは全く求めてなかったし、もう不必要だと知っていた。そう、それはインディー盤で過去に出てた「ドッペルゲンガー・グラデュエーション」を先に聴いてたからだ。

ずっと追いつづけては追いつづけていく、新しく思い出を更新する作業。
それは変わる変わらないの問題じゃなく、回想の中で苛立つ位笑っている自分からの卒業。
もう1人の自分からの卒業

ドッペルゲンガー・グラデュエーション」

オルタナへ接近せんとばかりに粗い録音で切迫した音像の中、声を荒げて過去との決別を宣言するこの曲は、品行方正なギターロックバンドなイメージのBase Ball Bearの中ではとても異質だ。しかしその緊迫感の中で発せられる叫びにこそ、強く胸が焦がされて幾度となく聴いていた。

当時の自分は、今が辛いから過去に戻りたいと常に思っていた。だけど『十七歳』のような受動的で甘えた文言より、"過去への逃避をやめろ"という強い意思を持った曲の方に揺り動かされたのだ。だからセンチメントが逆流してくる思い出から卒業して今に向き合うことにこそリアリティーを感じたので、そんなヌルいアルバムに慰められたくないという想いがあった。

まぁアルバム発売1週間後くらいにBEST HIT USAでThe Police「So Lonely 」が流れて、「気付いてほしい」ってこれのパクリじゃん!って思ったのもこんなにヘイトしてた理由の一つに無くはなかったりするんだけど。(10代のガキにはオマージュの楽しみ方というのが分からなかったのです。。)

そこら辺で違和感を感じつつも惰性込みでなんやかんや聴いてきたけど、段々とライブでのロキノンノリ(曲に合わせて群がり拳上げつつピョンピョン跳ねる、ラジオ体操かよってアレ)にも嫌悪感が出てきたし、何より2010年リリースの3.5thが決定打となる。そのまた様変わりしたサウンドには、結局のところ、Number Girlの面影をこのバンドに求めてたんだなと否応無しに意識させられてしまう。そして翌年行われたバンド10周年記念でインディー期の曲もやると前もってアナウンスされたSAYONARA-NOSTALGIAツアーで、文字通りSAYONARA-Base Ball Bearをしたのだった。が、ここまで4年間で30回ほどライブ行ったが自分のフェイヴァリットの「ドッペルゲンガー・グラデュエーション」は一度も観れず...

それからNumber Girlに代わるバンドをインディーズで探してみるが見つからず(強いて近かったのを挙げるとすれば進行方向別通行区分か)、Number Girlは唯一無二で代わりはいないと気付き求めるのをやめた頃、東京インディーの波が来て自分もそれに乗っかってた2014年、暫く追ってなかったBase Ball Bearが新譜を出すニュースが。とりあえずインタビューを読んでみると、近年横行してる高速4つ打ちや客の(所詮仮初めの)一体感に異を唱えていた。「これだよ、これ!やっと言ってくれたか!」と、その態度を買って久々に意気揚々とアルバムを購入。が、良い部分もあるが、5th『二十九歳』はどうもまだまだ甘い。収録時間が短い近年の風潮に対抗して70分超えだからダレないように早いBPMの曲も必要なんだろうけど、大口叩くくらいならシングル曲全て抜くくらいの気合い見せて欲しかった。中途半端。リード曲「そんなに好きじゃなかった」はこのバンドが持つ疾走感4つ打ちというパブリックイメージを崩すのには機能してるが、それ以上のものはなく、要するにつまらない。さらにアルバム曲にもいくつか早い曲あるし、インタビューのビッグマウス発言は一気に説得力がゼロに。

まぁ結局、メジャーで活動してる一介のロキノンバンドがシーンに対応できるスピードなんて所詮こんなもんか、と思ってたら翌年にアルバムリリース宣言。そして今度こそ...という想いと共に発売日を待つ日々だった。


●SAYONARA-NOSTALGIA?
『C2』の話に移行する前に、自分がBase Ball Bearに惹かれた大きな要因の一つを話しておきたい。それは、「溢れ出てくる過去への想いと対峙」する詞世界だ。

めくるめくる思い出がまだ、懲りずに繰り返されていく
好きな曲口ずさみながら俺の肩に頭置いた君と水玉模様を散りばめてたあの最後の事件も

「HIGH COLOR TIMES 」

頬杖ついて思い出してみても、今は冷めた珈琲が寂しいだけの朝
「彼氏彼女の関係」

感傷というものに対し、先に挙げたドッペルゲンガーでは必死に抗い、「HIGH COLOR TIMES 」や「彼氏彼女の関係」では溺れる。OMOIDEに取り憑かれている様はとても他人事に思えず、そして何と美しいことか。

OMOIDEと言えばこのバンドを語るには外せない、巨大な参照元の一つであるNumber GirlBase Ball Bearは「SAYONARA-NOSTALGIA」という曲が初全国流通盤の一曲目だが、その次に続く曲は「水色革命」まんまのリフである。つまり、NOSTALGIA=OMOIDEに全然SAYONARAできてないじゃん、と。

曖昧に変わる思い出の裾を掴んで離さない
俺は、思い出主義者

「aimai memories」

それでもってこうも包み隠さず断言してしまう辺りに、愛おしさすら感じたりもする。


●ギターロックへのLove/Hate
インタビューでも度々言ってるが、小出氏はギターロックというものに愛憎を持ち合わせてる。

ゴミ箱を漁りなおして
何もないってわかっているけどまだ探したい

「何才」

このゴミ箱と蔑みながらもまだ可能性を希求する詞こそ、氏のギターロック観を宣言してるのではないだろうか。

また、上に記した「溢れ出てくる過去への想いと対峙」という文の"過去"を"ギターロック"と置き換えてみると面白い

「ギターロックは広がりが無く、もう終息の方向しかない。(中略)だから自分たちでこれが決め手だというギターロックのアルバムを作った。」
(ROCKIN'ON JAPAN 2006年12月号)

「僕はギターロックっていう自分のやってるこのジャンルが凄く好きだし、好きだからこそ今のこの即時的な「気持ちいい」の過剰供給が「そうじゃないじゃん!」って思ってる。ギターロックってもっと面白いじゃん!面白くしたいじゃん!(中略)その魔法をもう一回見たいし見せたいと思ってる。その始まりになるようなアルバムを作れたと思います。」
(MUSICA 2015年11月号)

前者は『C』(現在手元に本が無くて一字一句が正確である引用ではないが)、後者は『C2』リリース時のインタビュー。'06年時点で飽和したギターロックシーンにトドメを刺すつもりのアルバムを作ったと言ってるのだが、今も尚そのジャンルに拘泥している。それこそがギターロックに愛憎を持っている証左だ。

また、好き/嫌いの間の感情を揺れ動いてる機微は「何才」の次曲の「アンビバレントダンサー」で描かれてたりするし、「気持ち良すぎて気持ち悪い」という頻出するフレーズや、「間の人」という詩集のタイトルにも表出している。


●C2

砂漠に水を撒こう
渇くとわかってても
プールに混ぜるのはゴメンだ

『「それって、for 誰?」part.2』

これは、今フェスで流行ってる享楽的なギターロックには乗らずに未来に目へ向けたギターロックを提示するという宣言だが、この言葉が説得力を持ち、鑑賞に耐えうるアルバムがようやく出来た。それが新譜の6th『C2』だ。

夏フェスで蔓延している、客が同じ様に拳を上げ、同じ様に跳ねてる同調ギターロック。その手のギターロックに対して異を唱える手法がギターロックというのところにこのアルバムの最も面白い部分ではないだろうか。この態度は同曲で"ほとんど意地になりかけてる"と吐露してるフレーズや、既に上記で散々示した小出氏のギターロックへの拘泥にも見つけることができる。

そもそも近年4つ打ちギターロックが流行ったのはゼロ年代に「ELECTRIC SUMMER」やASIAN KUNG-FU GENERATION「君という花」等が萌芽を蒔いたからだったが、そこに代案として別の角度からのギターロックを提示して尻拭いする姿勢にこのバンドの一種の誠実さを感じる。part.1でSNS等に揶揄を入れたからpart.2ではちゃんと自分についても言及しなくてはいけないというインタビューの発言にも。

高速4つ打ちブームも高速4つ打ち叩きブームも去年で終わってじゃあこれから実際どうするの、というタームに今年は来てると個人的には思っていて、そこに前作からインターバル1年で提示してきたのが頼もしい。

アルバム内容を見てみると、全体的に強く意識させられるのはこのバンドのパブリックイメージである「疾走感」から遠く離れたグッと抑えられてるBPM、そしてブラックミュージックへの接近。しかしそこはBase Ball Bear。あくまでギターロックという枠組みの中でそれを取り込んでいる。ベースが気持ちよく自在に動くディスコサウンドと共に小出氏のカッティングが響くが、それは過去にあった「海になりたい」のような向井秀徳カッティング(そんな言葉あるのかは知らんけど何となく)ではなく、ファンクのそれに聴こえる。

ブラックミュージックといえば東京インディーの流行りの一つであり、メジャーのBase Ball Bearがインディーと偶然にも共鳴してるのが面白い。(Ustで東京インディー意識してたか訊いたら即否定されたけど)

現代社会を茶化しつつメタ視点からも歌う『「それって、for 誰?」part.1』から始まり、BPMを落とし腰を据えた「こぼさないでShadow」、「美しいのさ」では珍しく小出氏の弾くアルペジオが甘美な陶酔に浸らせ、鮮烈なファンキーナンバー「曖してる」までが序盤。その次は同じファンクでもより漆黒でドープな「文化祭の夜」、からのネオアコの響きがする「レインメーカー」の流れにはギャップで清涼感が際立つ。

青春が終わって知った
青春は終わらないことに

「どうしよう」

『C2』随一のキラーフレーズ。青春=ギターロックを諦めきれない様のように感じた。ご丁寧に"in my head"ってフレーズも出てくるし。そして一聴するとド直球にギターロックだが、ギターロックでクリシェと化してる自分語りを封印した「カシカ」までが中盤。

終盤、シューゲイザーではないがサイケなウォールオブサウンドが包み込む「ホーリーロンリーマウンテン」が終わると、一転して淡々とギターコードが鳴り響く隙間の多いイントロから始まり徐々に熱を帯びてく「HUMAN」。幻想的な雰囲気と曲順的に『C』の「ラストダンス」の様な比較的従来のBase Ball Bear像に近い「不思議な夜」、そして"それでも、それでも"と切迫しながらもギターロックを諦めない『「それって、for 誰?」part.2』で終わる。

と、本当はアルバムの重要なテーマである「視座」とかの話もあるが、今回はあくまで「ギターロック」に絞って書いてみた。

メジャーのフィールドにいるギターロックバンド、身も蓋もないこと言うとロキノンバンドがここまでギターロックの可能性を拡張しようと半ば意固地になってるのは、もっと周知と賞賛をされるべきではないだろうか。来年にはまた別の構想があると発言があったので、自分にとって数少ない動向が気になるメジャーのバンドだ。